昭和49年4月23日 朝の御理解



 御理解 第76節
 「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。牛馬は我子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」

 愈々信心によって、私が助かる。私が愈々助からなければ、勿論人を助ける働きと云う様な事も出来ません。世の難儀を人の難儀を見るに付け、または聞くに付けて、本当に自分に力のない事が残念に思う。自分に力があったらなあと思う。勿論信心で言うのですから、真実の助かりを求めての事ですし、又は助けると言うても、真実助かってもらわなければならんのですから、まずは自分が助かる。
 信心は私共が、神の氏子としての自覚、神様の氏子であると云う自覚を促す。または、そう云う自覚を作らせる。その自覚に立って愈々、和賀心が神に向こうて行くと云う生き方。神の心に向こうて行く生き方と云うのが、言うなら、自分が助かって行く事だと思うんです。他に助かり様がない。人としてこの世に生を受ける。そこから人間としての、言わば教育をするのが、育てるのが教育である。人間でも、先日テレビでやっておりましたが、狼が人間の子を、狼が育てるとね。やっぱり狼の様になるそうですよ。
 遠吠えをする様になったり、手はあっても立たない。四つ足で歩く様になる。そしてこの歯までもですね。肉類を食べたりしますから、尖って来るそうです。教育と云う事が本当に大事な事かと云う事が解りますね。教育、言わば人の子に生まれたから、もう人と云う事ではない。言うなら、狼が育てると、狼になってしまうのです。その習性までが変わる。形までが変わって来る。教育と云う事が大事だと云う事が判ります。人として生まれた者が、育てられて言わば行くのが人間。
 人間に育てるのが教育である。その人間を神の氏子たらしめる。それが宗教だ。私は、そこからでなからなければ、助かると云う事は言えないと思うです。ただ普通で言う助かるとは、私は、少し意味が違うと思うです。只おかげを頂いて、ここに色々な難儀の中から、そこを通り抜けさせてもらえる、そのおかげ、それもやはり、神様のおかげで助けて頂いた、と云う事になりますけれども。
 私はもう一つ奥の方にある、本当の助かりそれは宗教による、言わば私共の助かりと云うのは、いわゆる神の氏子としての自覚に立って、そこからわが心が神に向こうて行く。自分が助かると云う事は、それより他にないと思うのです。ただ病気なら病気が治ったと云う事だけでは、病気は助けてもらうけれども、その病気が治ったからもういらん。是じゃ助かると云う事じゃないのである。助かると云う事は何処迄もやはり心である。心が言わば、人間から神様へと進んで行く進展して行く。
 今日は大体私はこの七十六節と、七十五節の相中の所を今日は頂いたんです。実は七十六節じゃなかったんです。相中と言うたら丁度ここは継目の所ですから、何も無い所なんです。言うならば七十五節と七十六節の、七十五節にはどうあるかと云うと「人を殺すと云うが心で殺すのが思い罪じゃ」と云うようにあります。ですから私はこの七十六節をです。言うならば心で助けると云う事、と言う意味に頂いて今皆さんに聞いて頂いた様なことを申しましたんです。
 「心で人を殺すと云う事が一番重い罪じゃ」と。ですから心で人を助けると云う事は、重い罪の反対ですから、神様に本当に認めて頂ける。誰も知らんけれども心で助けれる。ですからただお金の無い人にお金を貸してあげたり、恵んであげたりで助けると云う様な、形で助けると云うのではない。いわゆる人を殺すと云うが、心で殺すのが重い罪であるならば、心で助けると云う事が今度は尊い。言うならば罪の反対はどう云う事になりますか、褒賞を受けると云うかお褒めを頂くと云うかと云う事になる。
 その褒賞とかお褒めのその事が言わば、私は徳だと思うです。人を心で殺す又は傷付ける。それが重い罪だとですから心で助ける。心で癒してやる心で助ける働きをする。是は只私は人間の教育を受けた、人間誰しも出来ると云う事じゃないと思うです。心で助けると云う事は矢張りその心に力を頂かなければならん。言わば可愛そうだなあと思うても、どうにもしてやれない。力がなかったらそうでしょうが。所が心に力を得て行くとです。それが身近な所から一つ一つ成就して行くです。心
 で傷を癒してあげたり、心で助けたりする事が出来る。それが私は神心だと思うですね。もう一つ前の七十四節に、「可愛いと思う心が神心じゃ」とある。問題はです。その神心に寄らなければ、人を癒したり、心を癒してあげたり、又は人を助けたりする事は出来ない。だからまずは自分自身が助からなければならない。自分の助かる位に精進する。それが有難いと心得て信心せよと云う事ではないかと思います。一番最後の七十六節のね。「人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ」と。
 「金の無い人に金を恵んであげる事が有難いと心得て信心せよ」とも言えます。けれども、それは本当の助かりにはなりません。金を恵んであげるとその時だけは助かるのですね。だから今日私は七十五節と七十六節のその相中からの物。「人を殺すと云うが心で殺すのは一番重い罪じゃ」と仰るから七十六節には「人を心で助けるのが一番神の喜びじゃ」と言う風にです頂いた。だが心で助けると云う事は思うただけでも思いますよ。親切な心のある人はああ気の毒なと思いますよ。
 手を貸してあげる事も出来るけれども、手を貸してあげただけでは本当の助かりにはならないのです。本当にその人が助かる事の為に、心に力を受けなければならない。心に力を受けると云う事は、和賀心が神に向わなければいけない。「可愛いと思う心が神心じゃ」と可愛いと思うたら、そこにその人が助けれる程しの心、それを神心と云うのである。仏教では慈悲を説きキリスト教では愛の心を説く。
 金光教では神心を説く。金光教では真、真心と言った様な事が、実意とかと云う風な心を説くと云う風に一般に言われておるし、思われておりますけれども私は本当は金光教の信心は神心を説くのであり、神心を銘々に愈々育てて行くと云う、それがお道の信心の真だと思うんです。和賀心が神に向うて行くに従って和賀心は、心その物も神心になって行く。それはどう云う事かと云うと人間の心ではどうにも出来ない。只かわいそうだと思うだけなんです。かわいそうだと思う心で祈る所に力と云う物はです。
 その人を助けて行く事になる。是はね自分の心の力と云う物を感じ出しますと楽しいです信心は。実は今朝から私も、自分の心の力と云う物を頂かなければと思うた事があるんです。と言うのは、ここ二三日私共の孫が具合が悪いがです。何処がどうと云う事もない。少しお腹を壊しておる細事ばっかり言う。昨夜も私の所へ来てから、私の横に寝せておりましたけれども、それが泣き方やらその違うんです。
 何処が痛いか子供の事じゃから分からん。是はまあ子供の事は親が願えと言うけんもう親が改まる以外にないと思うんです。是は私の方の若先生達夫婦と云うよりもむしろ若先生ですが、若先生の信心がシャンとしとる時には絶対ないですね。私はこの頃ちっと緩みよるなと思うと必ず起こるです。何かあるんです子供の上に例えて言うと朝の御祈念なら朝の御祈念が五分、十分遅れる事がもう最近は当たり前の様になっている。
 もう私が何を一番大事にするかと言うと、もうそれこそ神様の事柄の事に付いては一秒間だって遅れてはならないと云うのが、私が四時の御祈念に三時半に出て来るのがそれなんです。それがもう、つ一杯休んどるもんですから、出て来る時には、もう五分遅れておる、十分遅れておる。もう言うなら、私の信心を切り刻みする様な感じを、昔は受けとりました。思いよりました。
 けれども是はもう自分が判る以外ない。どのくらい余裕のある信心と、がつがつの信心が違うかと云う事を銘々が、是は私の方の若先生だけの事ではありません。皆んな同じ事です。で今朝御祈念中に昨夜のやはり孫の泣き具合と云う物がどうも普通でないと思った事が御神前に座ったら一番それがやっぱり気になった。それでその事を神様にお願いをさせて頂いて、私は若先生たち夫婦に今日はその事を言おうかと思うた。
 私は言わない言わば建前なのです。他の事はどうこうとは言わんけれどもね、例えば嫁に言うなら「良子さん若先生がね、もう五分でも良いから御広前に余裕のある。所謂あんたが起こして送り出して下さい。若先生も其処の所に一つ本気でキチッと五時の御祈念は本当に五時の御祈念の出来る心を、信心をキチッとした物にして行きなさい」と。だからあれは妙なもんでね言うてからしたのでは本当のおかげじゃないんですよ。
 私は是はもう長い体験から、例えば御理解なら御理解を頂いて、ああ翻然としてそうだと思うた時例えば昨日一昨日でしたか、桜井先生がお届けされますのに「親先生何時か物を大切にすると云う御理解の中に、石けんをね決して拭かない。拭いたら最後拭いたら良いけどもそりゃ拭いただけ損になる。お粗末になる。だからこううち振っただけで、石けんの箱の上にこうやって、垂らさしておく。
 そうすると明くる日来た時はカラカラになっている。それを今の流行のプラスチックの石けん置き、しかしこうやってすの様になっとるけれども、実際に拭かずに置いとくと、もう下の方はベロベロに柔くなってしまっておる。もうこげなお粗末な事を平気で皆がする。けれども私はかくすると言う話をした。そしたら本当に親先生そうだなあと思うた。もうその日から私は石けんを、石けん箱を大体二つか一つで良い私は、一つの上にこうやって垂らさしておくだけなんです。
 と云う事を実行させて頂きましたら、もう家内と二人で顔を見合わせる様に思えた事があった。もうそれを境に、私共は石けんに不自由を致しませんとこう言う。ほう桜井先生がそうなら私も今日からしよう」と言うてそれを一気にそれをそう真似しただけではね。実を言うたらいかんのです。出けんのです。だから是は桜井先生だけの物なのです。言うならば翻然として悟ったとかお話を聞いてほんぜんとして、是からの生き方を改めたとか言うところにです。
 「もう随分長くなりますが、それ以来私の方では、石けんだけは不自由いたしません」と言うんですよだからそこにです。お金ならお金の不自由致しませんと云う事もです。何か御理解を頂いて翻然とするおかげを頂かにゃいけんです。昨日私「金光青年」を見せて頂いておりましたらここの扉の所に「惜しい」と云う事に付いて、誰かが書いておられます。是は信心の無い人の話ですけれどねお金が難儀して困っておる人に対して、お金持ちの主人が、「あなたはお金が惜しいのですか欲しいのですか」と言うた。
 「もう兎に角喉から手が出る様に今お金が欲しいんです」「ああそれじゃあなたは金が貯まらん」と言うた「お金が欲しい欲しいと云う者は、お金は貯まらん。けれども惜しいと云う人ならばお金が貯まる」成程穿った(うがった)言葉だと思うです。信心では「惜しい欲しいと言った様な物は外せ」と言う。それとは一寸意味が違う様です。例えばお金を頂くでしょう。そしてお金を生かしてしか使わない死金など使わない。無駄にども使っちゃ惜しいと言う人になら、お金が備わって来るんだと言うのです。
 例えば今日の御理解を頂いて、皆さんが翻然とああそうかと思うたら、絶対にお金に不自由しない様なおかげが頂けて来る様になるでしょうね。それこそ甘木の親先生じゃないけれども、百円の金を例えば神様事に使う時には一円の金を使うた位にしか思わない。自分のお金を一円使う時には、それこそ百円を使うたように思うと言われたそうです。もうそう云う人には絶対お金が残る。
 今話が一寸横道に反れましたけれども、桜井先生の事でもそうです。だからなら私が若先生夫婦に言うて聞かせて判らせると言うただけではね、本当の事じゃないのです。夫婦の者が翻然として親先生が一番大事にして御座るここの所を一つ悟った所をです。他の事は出来んけれども、是だけは親孝行が出来ておる。是だけは親の言う通りの事が出来ておると云う、言わば、翻然とした物になって来る時に、おかげになるのです「あんたどん、此処ん所を改めな」と言うて改まらせたんじゃ、本な事にはならんです。
 今朝も今言う孫の事を思わせて頂いて、両親が此処ん所をシャンとしたら、おかげになるとこう感じるのです。だから今日は言おうかと思ったけれども、それこそ自分の心です。私が此処ん所の修行をさせてもろうて、私自身が力を頂く事になって、孫の上におかげを頂かして下さいと言う願いをさせて貰いました。言うならば心でそしたらどうですか、今日はキチッと五時に出て来ておる。久し振りでした。そう云う事になって来る時に、子供は必ずおかげを受けるです。心の力で言うならば助ける事の出来る。
 助けるでなからなければ、本当の助かりと云う事にはならない。それがなら和賀心が神に向うて行くと云う信心。信心とは人を人間に育てるのが教育である様に、人間をまた神に育って行く。神心の自覚いわゆる神の氏子としての自覚を持って、和賀心が神に向うて行く事が信心だ。信心の教導だと云う事になって参ります時に心に力を頂く。只可愛そうだなあと思うただけでは助からん。是は人間的にもそうです。神心で可愛いと思う心になった時にです。所謂金光教の所謂真髄である。金光教で何を説くかと言うたら。
 金光教では神心を説くのだ。また神心を銘々の心の中に頂いて行くのだと。その神心祈る所に自分の力をそこに見、体得する事が出来る。かわいそうだと思うただけでは助かりません。可愛いと思う心と云うのは神心。神心で思う可愛いでなからなければいけない。人間が可愛いと思うただけでは、只手を貸してあげれる位の事、それでは本当の助かりにはならない。今日は人を殺すと云う事が思い罪である。人を心で傷付けると云う事は神の機感に適わぬのなら、心で助けると言う事。
 心でその心を癒してあげれる程しの力を受けると云う事を今日は聞いて頂きました。そのなら心で癒したり心で助けると言う事は、私の心が神心になって行く精進をしなければならない。そこから心の力と云う物が、段々養われて来る様になる。そう云う心の人を見ておるとです。その人の動作を見ておるだけで、その周辺に助かる雰囲気が生まれて来る。自分がイライラしたり、腹が立ったりする時にはね。自分だけじゃないその人の周辺もです。ある意味では心を傷つける結果になるです。
 自分が心の中でブリブリ腹を立てておったら、周囲までも心の中に傷つけるです。自分の心が真っ暗かったら周囲までも暗くしてしまうです。自分がもうジガジガ切れば突こうと云う様な心の時には必ず人を、言うならば心で殺める。ですから自分自身の心が和らいでおる時喜び一杯である時と云う事を目指すと云う事が信心。それが神心に向って私共が導かれている時なんです。今日は75節いや74節の所も今日は聞いて頂いたですね。74節75節、本当は75節と76節の相中と云う所を聞いて頂いた。どうぞそれを心で殺すとか心で助けるとか云う風な意味で聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。